生年月日:1965年8月12日
出身:大阪府吹田市
肩書:特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問/ファウンダー/小児外科医
幼少期は病弱で、喘息持ちのため寝込むことが多かった。実家は車の部品の縫製工場を営んでいたが、オイルショックの影響で高校生の時に廃業。中学生の時から母親が小料理屋を始め、昼も夜も働き通しの生活を支えていた。
15歳の時、戦争や飢餓で苦しむアジアやアフリカの子どもの映像をテレビで目にし、死んでいく多くの人と、安住の地である日本で生活している自分との間に、運命の理不尽さを感じた。その感覚が、後の「医療にアクセスできない人に医療をする」という決意の原点となる。
高校生時代はほとんど勉強をせず、国立大学の教育学部を受験するも不合格。入試本番では3教科中2教科が零点という結果だった。その後、自身の人生を俯瞰した時に「これから長い人生、どう生きていくのか」という問題意識に目覚め、15歳の時に感じた世界の理不尽さに向き合うため、突然医師になることを決意。2浪の末、大分医科大学(現・大分大学)医学部に入学した。
卒業後は海外医療に最短で進む手段として、大阪・神奈川の救急病院などで勤務し、医師としての経験を積んだ。
大東亜戦争の激戦地となったミャンマーのメッティーラ。戦後50年が経った1995年11月、「日本ビルマ世界平和ナガヨンパゴダ」の完成記念法要に吉岡は同席していた。
高齢化により慰霊活動の継続が難しくなっていた慰霊団は、かつて敗走する日本兵をかくまい、戦後には復興支援米を送ってくれたミャンマーの人々への恩返しとして、「日本人によるミャンマーでの医療活動」を新たな慰霊の形とすることを考えた。その依頼を受け、吉岡がミャンマーでの医療活動を担うこととなった。
法要後、吉岡は一人ミャンマーに残り活動準備を開始。ミャンマー政府から医療活動の許可(MOU)を取得し、1996年5〜6月に本格始動した。活動内容は無医地域への医療援助、栄養失調児への栄養給食、浄水の提供および衛生教育など。
当時のメッティーラ地域は人口約32万人に対して医師はわずか1名。吉岡は周辺4つの村を巡回しながら診療・手術を行い、朝5時から夜中12時まで患者と向き合う日々を続けた。日本人医師が来たという噂を聞きつけ、遠くから何日もかけて患者や家族が押し寄せてきた。
2年間の活動を通じて、小児の開腹を伴う外科手術ができなければ治療に限界があると感じ、一時帰国。小児専門の外科医療を学び直すため国立岡山病院、川崎医科大学に勤務した。この時期、産経新聞厚生文化事業団が支援する「明美ちゃん基金」によるミャンマー子ども病院建設プロジェクトで支援委員長も務めた。
2003年3月にミャンマーでの活動を再開。2004年4月、帰国後に日本人6人と現地スタッフ数名でジャパンハートを設立した。
外国人医師への制約が多い政府系病院ではなく、仏教寺院が運営するワッチェ慈善病院を拠点に選んだ。手術用の糸は個人商店で買い集め、明かりが足りない分は懐中電灯で補うなど、出費を抑えながらスタート。同時に、当時普及し始めたインターネットで広報を開始し、徐々に活動を共にする医療者や寄付が集まり始めた。
ミャンマーでの活動は、慢性疾患の治療や巡回診療、視覚障がい者支援、養育施設の運営など、幅広い分野へと広がっている。現在の課題は心臓病をはじめとするより高度な医療への対応だ。小児心臓病分野では、日本から専門医が定期的に渡航し、心臓病の子どもの治療サポートを実施している。
貧困で医療を受けられない人々への医療——それがジャパンハートのオリジンであり、今も変わらない活動の根幹である。
※2020年6月から吉岡秀人のブログ更新は、exciteblogからnoteに移行しました。