菊地 南(きくち みなみ)

菊地 南(きくち みなみ)

周産期事業部門責任者、助産師、看護師

出身地 千葉県
趣味 おいしいお酒を呑むこと・旅行
活動地 カンボジア
専門科(経験科) 産科
卒業年度 平成21年度卒、助産師歴10年目

ジャパンハートでの活動開始
2014年4月~国際看護長期研修(現・国際看護師研修)開始
  国内:長崎県上五島病院 海外:ミャンマー ワッチェ慈善病院
2015年4月~アドバンスドナース※として、長崎県上五島病院と対馬病院で活動
2016年5月~カンボジアで活動開始。

※アドバンスドナース…ジャパンハートの国際看護長期研修で一定条件をクリアした修了生が、研修でのキャリアを活かし、ジャパンハートの活動地で社会貢献する制度

菊地さん、よろしくお願いいたします。まずは、菊地さんの業務内容・役割を教えてください。

よろしくお願いいたします。 まず、メインとなる周産期事業では、妊婦健診、母親学級およびモバイル母親学級(出張学級)、分娩管理、産じょく新生児入院のケア、そしてカンボジア人助産師の育成も担っています。 また、団体運営の一環で、日本人助産師対象の海外研修の企画・運営・広報をしたり、日本人研修生の管理・指導をしたり、支援者様からご寄付いただいた物資の管理、広報活動、助産師ツアーの企画・開催をしたりしています。

業務は多岐にわたるのですね……。菊地さんがジャパンハートで活動を始めた理由を教えてください。

15歳の高校受験を控えた頃、学校の授業で「世界では5秒に一人の子どもが亡くなっている」という話を初めて聞きました。貧しい国の子ども達の写真を見たときに「1秒でも早くここへ行かなくちゃ!」と思い立ち、助産師として海外で活動することを目指しました。
現地医療者の管理という立場ではなく、自分たちの手で医療が提供でき、患者さんとの距離が近いジャパンハートの活動スタイルが、私の思い描く国際医療と合致したため参加を決めました。

菊地さんの思い描く国際医療とは、具体的にどんなものですか。

様々な医療団体を調べたとき、管理的な立場のポジションや現地医療者の指導、保健活動が多かったんです。でも、私はもっと自分自身が現場に入って、患者さんや妊産婦さんたちにより近い場所で活動したかったので、そんな活動スタイルが実現できるところを探していました。
そんな時に、ミャンマーで活動している河野さん(現・ミャンマー専門医療プロジェクト Project Director)をたまたまテレビで拝見したのがきっかけでした。彼女は助産師ではあるものの、看護師として現地で活動していました。
また、フィリピンで助産院をやっているある日本人の手記を読むと、その助産院には医療を求めて様々な疾患の人たちがやって来ると書かれていました。「助産師だから骨折の人は診れない」と言っても、それでも人々は彼女を頼って訪れると。
助産だけできても使い物にならない。海外で活躍できる人になるためには、助産師としても看護師としてもより幅広い知識と技術が必要だと感じ、ジャパンハートの国際看護長期研修(以下、研修)に参加したんです。

日本と活動地での医療はどこが違いますか? 違わないところは?

人々の死生観、貧富の差、予防や健診の概念、医療に対する信頼感、医療者の知識・技術・志・ホスピタリティ、家族や周囲の人との繋がり方など……違いを日々感じています。
その違いを目の当たりにするたび、自分がいかにちっぽけで小さな考え方なのかを思い知らされます。
自分の今までの経験や知識から作られた、自分の「物差し」は誰しもが持っているとは思います。「普通はこうでしょ」「日本ではこうだったから」「今までこうだったから」という。
研修の時は、看護師として参加していたので初めての経験も多く、わりとすんなりあらゆることが受け入れらていました。でもカンボジアに来て、助産師として専門分野で活動することで、葛藤を強く感じることがありました。専門家としてプライドを持ってやってますから、当然といえば当然だったのかもしれませんね。
現地のやり方や文化を尊重することはとても大切ですし、日本では「正しい・いいこと」がここでは正しくないこともあります。
どこまで伝統や文化・ここでの方法を受け入れ、どこまでは譲らない、というバランスが難しいと感じることがあります。しかし、全てを受け入れるのは、それはそれで違うとも思っています。難しいですね。

現地で医療をする楽しみはなんですか?

今の一番の楽しみは、カンボジア人助産師が活き活きと仕事をしている姿を見ることです。退院したお母さんが、大きくなった我が子を見せるために病院へ遊びに来てくれる時もとても嬉しいですね。
妊娠や出産の喜びをお母さんと分かち合ったり、妊婦健診に定期的に来てくれる妊婦さんが増えたり、赤ちゃんや子どもたちと戯れたり……。そんな日常が嬉しく楽しみでもあります。

活動地での忘れられないエピソードがあれば教えてください。

開院時、まだ何もかもが整っていない中で着任しました。分娩室の掃除、物品の整理と配置決め、器械を集めて分娩セットを作るところから始め、着任して3日目には1人目の分娩介助をしました。それから4カ月あまりは、身も心も削られるような満身創痍の毎日でした。
赤ちゃんの蘇生のために炎天下でバックバルブマスクを片手に全力疾走し、その後泣きながらまた走って次のお産へ向かう…なんてことも日常茶飯事でした。涙を拭く暇も、ゆっくり泣いて悲しむ時間もありませんでした。3時間連続で眠れたらラッキー、という忙しさで、いつ呼び出しがくるか分からなかったので、シャワーもトイレさえも気が抜けない毎日でした。今思い返しても、本当によくやったな、辛かったな、と思います。でも、あの経験ができたことはとても貴重なことだと思いますし、とても感謝しています。

印象に強く残っている赤ちゃん・または産婦さん(お母さん)の事を教えてください。

色々ありますが……1つ忘れられない体験があります。
ジャパンハートの病院での活動を一時中断して、田舎の病院に数カ月間滞在し、一人で活動をすることにしました。カンボジアのリアルな周産期医療をもっと知るための、潜入捜査ですね。(笑)
滞在中のある日。その日はお産がいくつも重なっていて、現地の助産師はそれぞれ対応中。「Minami、その人みて!」と言われたものの、分娩台は他の産婦が使っていて、空いている分娩台もありません。仕方ないので半分外にあるような物置に置いてあった古い分娩台に産婦を誘導。ベビーキャッチも間接介助もいない、本当に一人というとんでもない状況でした。「ひとりでやるしかない。」と腹をくくりました。
今までの知識・技術すべて動員!分娩介助のための器械を揃えたセットは全て他の産婦に使われていたので、とりあえず必要な器械を適当に集めて、赤ちゃんを取り上げました。誰もいないのでとりあえず赤ちゃんはお母さんのお腹に乗せて、お腹の上でへその緒を切って、胎盤出して、傷を縫合して…。
異国で、一人で、言葉も通じない、でも自分しかいない。120%出し切ってやるしかない状況のなか、ものすごい恐怖と責任感を感じました。
そして、「こうあるべきだ」と“日本の当たり前”をやっていられないし、やることもできない。「ここは清潔じゃない」、「妊婦や胎児の情報がない」とか言っている場合ではないですからね。アドレナリン出まくりました(笑)。
幸い母子ともに無事で、本当に「無事に産まれてくれてありがとう」と思いました。

帰国後のキャリアや見通しはどう考えていますか?

いつ日本に帰るかも含め、先のことはあまり考えていません。今、ここで活動できることに感謝して、毎日を過ごしています。

目標としてイメージできることがありましたら教えてください。

指導する立場になるのは予想外でした。自分が現場に立ちたいと思ってここに来たのに、結局はクマエ(カンボジア人)助産師の指導をしてますね(笑)。でも今はそのことにやりがいも感じてますし、みんなの成長がとても嬉しいです。
私がここからいなくなるのが目標ですかね。私がいらない現場を作りたい。自分が活躍する場を求めてきたけど、実際は自分が指導する立場になった。寂しいですけど、私がいらなくなったら、そっといなくなりたい。
日本の助産師さんには、自分が経験したようなここでしか学べない経験を是非してもらいたいと思っています。今は、助産師・助産学生限定ツアーや短期ボランティア、海外助産師研修など、日本人助産師が参加できるコンテンツがいくつかありますので、多くの助産師さんに参加してほしいと思っています。


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